メキシコ モンテレイで食べて遊んで働いて

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day 1008: 11歳児童発砲殺人•自殺事件について『Bowling for Columbine(2002)』

題名からも分かる通り今日は始終は真面目な話。

 

 

元々アニメとジムキャリー以外殆ど映画を見る習慣がない私。

うっかりしていると平気で一月くらい

長編作品を目にすることなく過ごせてしまう。

そんな中今週末はどうしても見たい作品が急浮上。

マイケル・ムーア監督の『Bowling for Columbine(2002)』。

彼の作品の中でもオスカーを取り世界的に有名なものの一つ。

もちろん映画音痴の私はそんなことも知らず、

そもそも芸人の春菜さんの影響で名前こそ知っていたものの

どんな映画を撮る監督かも知らなかったので

(何故かSF映画監督だと思っていた。)

もじゃもじゃで巨大で熊のような可愛い風貌とは裏腹に

ジャーナリスト出身でブッシュ嫌いで有名な

ガチガチの社会派ドキュメンタリー監督と知って驚き。

 

『ボーリング・フォー・コロンバイン』と

邦題も同名のこのドキュメンタリー映画

題名からも分かるように1999年に米国はコロラド州にある

コロンバイン高等学校にて2名の生徒が大量の火器により

13名を殺害し、重軽傷者24名を出し、最後には自殺をした

世界的に有名な学校での銃乱射事件を軸に

米国ではなぜこうも銃による殺人が多いのか

という問題についてインタビューを通して考える作品。

無知な米国人たちを脅し、他人を恐れ銃を持たなければ

安心して生きられないように扇動しているのは誰なのか。

アメリカの奪われ合いの歴史と銃規制に対する国民同士の闘争。

同じく銃国家であるにも関わらず殺人件数がずっと低く

他人を信じて生きていける隣国カナダとの違い。

 

もともとアメリカを嫌い偏見を持って見ている私は

この映画を見ることで半分その気持ちを裏付けし

銃所持に関しては変わらず反対派のままだけれど

自分の視点の見直しが必要だと感じた。

作品を見て思ったのは確固とした自国というものがない分

他人から奪い続け戦争を続けていなければ国を保てない

米国というシステムはやっぱり相当歪んでいると思った。

名目さえ与えてしまえば人殺しも正当化される、

それどころか大正義として扱えてしまうということを

国家が戦争を率先することで人々に表明し続けていることも

無視しがたい深刻な問題だと思うし、

たとえ自らを守るためだとしても銃というのはやっぱり

個人が持つにはあまりに過剰な防衛方法であり、

それを人に向けて行使させている国家は相当病んでいると思う。

短時間でくるくると場面が変わるし、作風もコロコロ変わり

面白いし頭を使わせられ2時間全く飽きなかったけれど、

特に若者の犯罪への煽動者はマリリン・マンソンなのか、

と本人に尋ねに行ったインタビューはよかったなぁ。

過激なエンターテイメントとしてのロックを提供し

何かあれば害悪や異端の象徴とされている彼の方が

十分現実を捉えているし大人としての振る舞いをしていた。

未だに何も解決されていない問題を取り扱っているので

この作品から学べることが沢山あると感じた。おすすめ。

 

で、普段は米国嫌いの私がどうしてこんな

アメリカの社会問題に関して頭を捻らせるような作品を

突発的に見ることになったのかというと、

題名にある通り、この金曜日に北メキシコ

私の住むヌエボレオン州のお隣コアウイラ州

荒野の片田舎の中継都市トレオンで

11歳児童による学校での発砲殺人事件があり

どうやらそれがこの歴史に悪名を残す事件とは

無関係ではないと言われているから。

 

現場は私立の小学校。

登校後朝8時過ぎにトイレに行ったきり男子児童1名が

15分も戻らないことを心配した担任が様子を伺いに行き、

トイレから出てきた児童の隠し持っていた拳銃にて銃殺された。

騒ぎを受けて他の職員が対応したものの

結局2丁の拳銃により児童5人、教師1人が加えて重軽傷を負い

その後に児童は自らを撃ち抜き死亡した。

 

普段から年間犯罪数や殺人事件に関しては

世界的にも大変評判の悪いメキシコだけれど、

このニュースは正直言って国民をとても驚かせた。

だってメキシコで起こる派手な犯罪の殆どは

マフィアが内内での戦争、あるいは報復で

敵対組織、政府やその他関係者を殺すもので、

庶民の犯罪なんて貧困に迫られての泥棒やスリ、強盗など

褒められたものでは全くないけれど大抵は地味でケチなもの。

法律で銃の一般家庭での所持が認められていない国なので

一般人同士の殺人はあれど銃が出てくることなんて滅多にないし、

ましてや子供がそれを行使したなんてのは異常事態。

 

さらにこの事件を追い打ちをかけて大きくしたのは

事件についての発表記者会見の場でコアウイラ州知事が

これは家庭の問題の延長、またゲームの悪影響である

と州の治安状況や教育制度とは全く関係ないことであるかのように

はっきりとコメントし、それが出回ってしまったこと。

 

どうしてゲームのせい、だなんて発言が出たかというと

事件の当日に男児が着用していたTシャツに

『NATURAL SELECTION』という言葉が印刷されていたから。

これがどうも2002年発売の銃撃ゲームのタイトル

(正式には他のゲームの再編番の題名)と同一らしい。

しかし調べてみれば実に簡単な話でこのデザインのTシャツは

ゲームの発売より前から存在している無関係のもので、

これを受けていわゆるゲームオタク中心に

不当にゲームを陥れるなという抗議が膨れ上がっているよう。

アホな政府の頭も使わぬ責任逃れの短絡的発言を

国民が声を上げて非難し抗議できること自体は

とてもいいことだし自治体の成長にとって必要だと思う。

しかし今回そういった声を上げている人の多くは

ゲームや自分の立場を守ることで満足してしまって、

本当は何がこの事件の原因で、どう防げたのかまでが

事件自体から視点がそれてしまったことで

ネット上で活発に議論されていない気がする。

 

そんなNATURAL SELECTION、つまり自然淘汰

と書かれたTシャツについて最も指摘されているのが、

コロンバインの犯人が犯行時に同じ文言の服を着ていたということ。

学校での殺人、銃の使用、という類似性から見ても

彼はこの事件に触発されたのじゃあないかという見方が強い。

という経緯からの映画鑑賞だったんだよね。

 

さて、私はこの事件の問題点は以下の3点だと考える。

 

1、必要異常の知識を得れてしまったこと。

もし本当にこのコロンバインの事件が

児童の鬱屈した衝動の発散方法として

一つの示唆を与えてしまったものだと仮定すると、

ようやくティーンの入り口に立ったばかりの少年が

そんな情報にアクセスできたことは問題ないことだろうか。

彼が物心ついているであろう2017年1月にモンテレイで起きた

中学校での生徒の発砲事件(負傷者のみ)よりも

20年以上も前の事件が影響を与えているというのならば、

そこにインターネットの介在を疑う余地はないのでは。

 

ゲームや映画だったら年齢制限が設けてあることで

親が事前に視聴を禁止することもできるけれど、

子供が携帯を持ちいつどこで使っているかもわからない時代

閲覧規制をかけても有害サイトを排除できるとは限らないし

わざと人にショックを与える情報を垂れ流す人もいる。

このあいだの新宿のミロードデッキでの首吊りだって

記事を読もうと検索をかけたら意図せず画像に行き着き

それもモザイクすらかかってない死体だったから吃驚したよ。

必要以上のものに思いもよらぬ形で出会ってしまう。

インターネットもネットリテラシーの低さも怖いと思ったよ。

 

20代の私が昔はよかったというわけではないけどさ、

でも私が彼くらいの頃は新しいことを知りたい時には

自分で関連書籍を探して、読んで理解する必要があったから

悪いことをするにも頭と根気が必要だったし

書籍というソースはある程度の信頼性を保証されているものだった。

今はあまりにも不確定な情報が頭を使わずに手に入れやすすぎる。

発信者の匿名性の強さ、誰でも発信できる気軽さから

発表物に対する責任感があまりにも薄いことも多い。

間違った情報、意図的な悪意が散らばっていて、

それを理解できる大人には有用かもしれないけれど

どんな子供でも正しく使用できるとは私は思えない。

道具の使い方を理解しないままそれを持たせてしまい、

使い方の間違いを監督責任者が気付けないないことが問題。

使用する子供ではなくて与える大人の問題だよ。

それを理解せず誰もが簡単に大衆に向けて表現できる道具を

発信者、受信者ともに気ままに用いすぎている。

自分も発信者となった今自戒も込め痛感する。

 メディアリテラシー教育の強化が早急に必要。

 

2、犯行を実行できる環境があったこと

絶対に解明しなければいけないのは

どうやって子供が米軍が使用しているような

22口径と40口径の拳銃と弾丸を保護者にも知れず

手に入れることができたのかということ。

どうせマフィア絡みなのはわかってるよ。

でも誰が11歳の子供とマフィアを仲介なんてしてしまったの?

猟銃ですらないんだよ。

獣ではなく明らかに人間に危害を加えるための道具が

11歳の子供の手に渡ってしまった。これは事故じゃない。

家庭の所為、ゲームの所為というよりも先に

コアウイラはそんな状況であることを恥じ、

反省し、マフィアと一般人が距離をおいて共生できるよう

尽力しますというべきではなかったのか?

(私はマフィアを数年で潰そうとするのは無駄な努力だと考える。)

 

11歳なんてカッとしたら暴れ出してもおかしくない。

ある程度は分別がついているべき年齢だけれど

子供が情緒のコントロールを失うのは想定できること。

私が小学校の頃も怒りに我を忘れて三角定規で

友達の太腿を刺し流血騒ぎを起こした子供もいたし

鉛筆、シャーペンなんて凶器でしかない。

机や椅子だって悪ガキに何度も投げられた。

政府が指摘したようにこの子の母親は2年前に亡くなり

父親は出稼ぎに出ていて殆ど会うことができないため

普段は祖父母に育てられていたという。

私立に通えるくらいなら家庭は裕福だったはずだし

学校でも優秀で問題ない生徒だったと言われていても

家庭環境から見えない鬱屈があった可能性はある。

感情の操作を失いやすい状況にあったのかもしれない。

それでも、だとしても、普通は子供の手元に

大人を簡単に殺せてしまう道具なんてそうそうなくて、

だから誰もが頭の中でテロや殺人を考えることはあっても

ほとんどの人が実行せずに、できずに終わるんでしょう。

もし拳銃が手に入らなかったら、それでも彼は

手元にある精一杯の凶器で実行したのだろうか。

教師を殺し、同級生を何人も傷つけることができたのだろうか。

彼の殺人と自殺の責任は、本当に彼だけのものだろうか。

 

3、彼の訴えを聞く耳がなかった。

犯行前に児童は同級生にはグループチャットで

「今日やってやる。」と言っていたそう。

被害者にその子達がいたかは分からないけれど

少なくとも彼は計画を他人に共有することで

異常を伝えていたわけだ。けれど誰にも伝わらなかった。

 

メキシコでは少し前の日本と同じく(今でもか?)

精神衛生というものが非常に軽んじられている。

精神科、心理カウンセラーの看板を街中で滅多に見かけないし

未だに一般的な母親像といえば

精神的な落ち込みは寝たら忘れるわよ、

と持ち前の南国的楽観視と田舎者の丈夫さへの過信、

あとは貧しさもあって精神的な弱体に寄り添う余裕がない。

より広い世界に触れ、信仰的に頼れるものも弱く

急激に環境が複雑化してきた若者世代間と親世代とで

少し心理的な負担に対する溝が出てきている気がする。

 

 

最後にこれはもうお決まりなのだが解決策が間違っている。

政府がすぐ実施を決めたのは登校時の荷物検査。

わかっていた。絶対にこういう対応をするってわかっていた。

コロンバインの時と全く同じ対応。

これでは問題は子供達にあると言っているのと同等ではないか。

コロンバインの頃はペンチを持っていただけで停学になった

だなんて小学生もいたけれど、これで何が防げるのだろうか。

 

気にしないければいけないのはそこじゃない。

子供達に武器を取らせない教育、ケアじゃあないのか?

必要なのは監視ではなく観察ではないのか?

変化が必要なのは子供ではなく大人ではないのか?

 

 

正直なところソースが隠蔽と虚偽でおなじみ

メキシコのニュースが大半なのでどこまでが本当で

何が間違っているのかは判断がつかない。

けれど私がこんなにも日本よりもストレスが少なく

のびのび生きられる、と感じているメキシコでも

たった11歳の子供が殺人を犯し尚且つ自らも死を選ぶほど

追い詰められて生きていたことは確か。

 

彼氏の姪っ子も6歳だてらにもう自分のiPadを使いこなし

1人で毎日YouTubeを見ている。

その中に彼女がまだ見るべきではないものはないか、

少なくとも私は知らない。

同じ長女として彼女が寂しい思いをしないように

甥っ子が生まれてからは特に気はしているけれど

私たちは彼女を正しく導く大人足りえているだろうか。

甘やかすばかりで思考を奪ってしまうことなく、

彼女が大人になるための苦しみや葛藤を抱えた時に

それを自分で乗り越える為の支えや踏み台となれるだろうか。

 

 

ネットの片隅の一発信者として、一大人として、

もう30歳の関だって遠い話ではないのだから

ちゃんと考えながら行動することを習慣づけたいと

幼い子供の死のニュースと

それを手に余らせている大人たちを見て思う。