メキシコでOL、24歳

日本の大学を出てなぜか一直線にメキシコで新卒就職。どうやって生きていくのかな、という報告。

day 67(いつもどおり篇): 結局実用美に落ち着く

f:id:ovejitaroja:20170616062545j:imageこれくらいの時期から、

年に何度かある仕事の最盛期がめぐってくる。

今月はモンテレイに来て以来ついに

オフィスで暇をもてあます時間が激減している。

充実しているけれど、寂しいような。

それでもやはり、この仕事は楽しい。

 

 

さて、朝から刺激的な事件があったにもかかわらず

日常が始まってしまえば、

ざわめいていた気持ちもすっかり忘れてしまう。

(同僚2人は午後まで事情聴取されていたけれど)

 

昨日は一日中事務所を出たり入ったり。

安らぎの移動時間に、同僚から飴をいただく。

 

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衝撃の赤。チャモイ再び。

喜びに震える。

 

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本日のチャモイは前回よりも酸味が少なく辛味が強い。

これは、チャモイの世界も奥が深そう。

メキシコ人の甘酸っぱさに対する探究心は底なしなのね。

 

ところで、写真を見ても分かるように、指を切りました。

 

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いつ以来だろう。

凍らせておいた鶏肉を切ろうとして、見事に刃が横滑り。

しかしあまりにスパッと切れた(というよりも突き刺さった?)

お陰で、痛みはほとんど感じず。

血まみれの鶏肉のおぞましさのみに不快感を感じる。

 

それにしても、

メキシコ人の鶏肉の取り扱いについて、私は非常に不満を感じている。

 

どうして彼らはきちんと鶏を解体しないのか。

非常に遺憾。

本当に憤っている。

 

バルセロナに住んでいた頃、

山の中の寮生活ですっかり時間をもて余し、

熱中したことの1つが鶏肉をさばくことだった。

 

Youtubeで解説動画を見て

すっかりその鶏肉の扱い方に惚れこんだ。

私は鶏の解体に、着物と同じような実用美を感じた。

 

物事には、やり方があるということが、

そのビデオ一本ですぐに感じて取れた。

ひとつに見えて一つじゃない。

命は一つの難解な塊に見えてその実、

沢山のものが組み合わさっただけもの。

 

筋がある、皮がある、筋肉がある、

骨がある、間接がある。

自分が手に入れようとしようとしているもの、

自分が対している命を理解することが大切。

よく観察すること、

自然に歩み寄ること、

相手を知ること。

そうすれば自然は丁寧に教えてくれる。

どうやって人間が彼らと共生していけるかを。

 

メキシコ人のように、分厚いナイフで

力任せに骨を砕くようなまねなんてしなくていい。

小さな包丁でだって、

鶏の構造を知っていれば意図も簡単に、

そして美しく、

また使いやすく、

すべてをパーツに分けることができる。

 

ぶつ切りにする必要なんてない。

関節の位置を知っていれば、

モモ肉は簡単に骨盤から外れ、

手羽先も見知った形になる。

 

引きちぎる必要もない。

ささみは胸肉からするりと剥がれるし、

皮だって力の入れようひとつで簡単に身から離れる。

 

自分の良い様に扱うのではなくて、

きちんと相手に尋ねれば(もちろん比喩だけれど)

内臓に鶏がらに、余った皮、

より多く部分を活用してあげることができる。

 

それは私たち利用する側にとっても得になることであるし、

彼らの助けを受けて生きている私たちが当然するべき努力でもあると思う。

 

人間の我を通すよりも、

自然の流れに従った方がずっと生きやすいと、そう考える。

そもそも人間も自然なのだから、

そこから離脱し個を貫くことに何の意味も感じない。

何かの恩恵を受けたいと思うのならば、

その相手の気持ちを汲み取り行動したほうが

お互いに利益を受けることができるのではないだろうか。

 

こんなことを考える私だから、

アイヌの人々の考え方がとっても好きなのかな、と常々。

 

北限の辺境の、ずっと厳しい自然の中に生まれた文化。

彼らは自然に生かされているだけ、

ということをはっきりと自覚している。

人間の自力で生きているわけではないことを良く知っている。

 

だからその性質をよく理解し、

生き残るために良くそれらを理解し、大切にしている。

自然の法則の中に人間の文化を築いている。

 

巡り巡っては自分たちのために

命をいただくときには余すところなく利用し、

植物を根絶やしにしない方法を伝えた。

そこには自分の命を繋ぐ他の命への感謝と尊重が感じられる。

 

ひとつの命は、沢山の死の上にのみ成り立つ。

そう考える。

 

生きることは、他人の命を奪うこと。

自分の生は、他人の死。

それはもう、どうしようもない。

 

だから私には、ベジタリアンという考えは

生の否定に見える。

生きる覚悟をすることから、

人間であることから逃げているように感じる。

 

或いは、それは自分は最終消費者である

というおごりに見えるのかもしれない。

自分だって明日には熊の胃の中かもしれない、

豚に食べられているかもしれない。

人間もその食物連鎖の途中にいることを忘れ

利用するばかりの罪悪感を感じているのではないだろうか。

利用されることなんて、ちっとも感じていないのではないだろうか。

 

なんてね。

 

三年前にマドリッドの考古学博物館で

ネアンデルタール人の模型を見た瞬間に

突然意識の上に浮上してきた気持ち。

鶏や魚を捌き始めたのもその頃だった。

自分の胃の中に納まる鶏肉と

飼っていた大切な猫と、根本的な身体構造は同じだった。

触ってみればすぐに猫を捌く方法が分かった。

そして、ついさっき冷蔵庫に詰め込まれた鶏も

生きていたことに気がついた。

 

しかしいまだに、

はっきりとその気づきの輪郭を辿ることは出来ていない。

 

そんな、ベジタリアンの逆を行く、たった一人の野生の女の考え。

これを言葉にするのが本当に難しいし、

他人に分かってもらえるように伝えるのはもっと難しい。

 

でも、この考え方があるから、

私は一生懸命生きられているし、

毎日がこんなに楽しいんだとも思う。

生を謳歌していると感じる。

 

そして、そういうものなのだろう。

すぐに分かるものではなくて、

誰かの命を奪って生きさせてもらう間に、

人生って楽しいなと思った日に、

死ななくて良かったと胸をなでおろした日に、

少しづつ近づける答えなように感じる。

 

死に向かい合い、

死を抱えていくことが、

生きることだとは言えないだろうか。

 

私はね、動物が好きよ。

自然も好き。

恋しいのも私の可愛いうさぎだけ。

 

 

いけない。少し、喋りすぎた。

 

 

キリスト教的な鶏肉の切断面に、

私はちっともクリスチャンではないことを悟った水曜日。

 

あと、山が綺麗でした。

 

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